2019年8月14日水曜日

拓殖大学「桂太郎塾」と神楽坂モノガタリトーク

【7月の東京での講演ご報告】
7月14日、東京茗荷谷にある拓殖大学の「桂太郎塾」にて学外講師としてお招き頂きました。最近は大学生はじめ若い日本人の海外への興味が非常に低いということを周りの大学の先生方からもよく聞くので、わたしがこれまで台湾を知る過程や執筆を通して考えてきたことについてご紹介し、台湾をはじめ海外への興味の一端になればと思いながらお話しました。
桂太郎塾は、「偏狭で排他的なナショナリズムやイデオロギーを捨て、自己主張のみに陥ることなく、相手を受け入れようとする柔軟性、協調性、バランス感覚を持ったリーダーを育成する」ことを目指して毎週土曜日に行われている特別選抜クラス。
志高い学生さんが参加するというだけあって、最後にはたくさんの質問をいただき嬉しく思いました。ちなみに拓殖大学初代校長の桂太郎公は二代台湾総督も務めており、拓殖大学創設時の名前も「台湾協会学校」と台湾にはとても縁の深い大学です。
下関の日清講和記念館を思わせる重厚な建物は、会場になった拓殖大学国際教育会館。この建物、義和団の乱の賠償金を元に作られたという歴史的にも興味深い建築。
講演によんでくださった丹羽 文生先生、貴重な機会をいただき大変有難うございました!
丹羽先生がまとめてくださった講演の概要はこちら↓
https://www.takushoku-u.ac.jp/…/campus_life_190717_15631.ht…



拓殖大学でお話した夜は、神楽坂の書店「神楽坂モノガタリ」さんでトークイベント。しとしとお天気にもかかわらず、ほぼ定員いっぱいの35名ほどのお客様にお運びいただきました。結婚して台湾に住み始め、台湾Y字路本そして台湾山口本を書くにいたる過程をお話しました。
聞き手は今回のイベントの主催者で『台湾と山口をつなぐ旅』を出版してくださった西日本出版社の内山正之さん。内山さんの熱量がすごいので、話していても滅茶苦茶おもしろかった。持ち前の「熱さ」で、山口本のほか持ってきていた寮さんの御本や万葉集本を売り切っていた内山さん、Y字路本に登場する台北監獄や山下啓二郎と寮美千子さんの奈良少年刑務所など、図らずも色んなご縁で繋がってきたことを再確認しました。
会場の「神楽坂モノガタリ」さんには初めて伺ったのですが、とっても素敵な書店。品揃えもすばらしく、いつまでも腰かけて本を手に取りたくなる空間でした。
雨のなか来てくださった皆様、ほんとうに有難うございました!!!
当日は、秋に日本で出版予定の新刊予告も。こちらは、また近々改めて報告します!

2019年7月9日火曜日

【書籍紹介】書店本事~台湾書店主43のストーリー


書店本事~台湾書店主43のストーリー
文:郭怡青 絵:欣蒂小姐 訳:小島あつ子/黒木夏兒
(サウザンブックス刊)

夏に日本へ帰るのに楽しみにしていたことのひとつが、クラウドファンディングでささやかながら協力させてもらい、実家に届けられているはずの本書を手に取ることだった
ちょっとずつ読み進めているけれど、手触りといい風合いといい丁寧な翻訳といい、日本での出版を企画され翻訳もされた台湾映画同好会主催・小島あつ子さんの台湾文化への愛情と想いが「だだ漏れ」になっていて、とてもいい。

とくにいいなと思うのは、日本人が取材をしに行くのとは違う体温の話を知ることが出来るところ。
最近は、日本の雑誌でも台湾の書店やデザインなどについて取り上げられる機会が増えてきたので、そうした事情も色んな形で目にするようになった。
しかし、自分でも台湾で取材をしに行くのでよくわかるが、同じ人でも台湾人と日本人に話すのでは、インタビュイーが意識するとしないに関わらず結構違ってくる。
それはやはり、言語力の差はもちろん、両者で共有している情報量やコンセンサスの差に加えて、ちょっとした気取りや気遣いや親切心(台湾人はサービス精神旺盛な方が多くて日本人が嬉しくなるような話をわざわざ盛り込んでくれる)など色んな理由があるのではないかと思う。
そういう意味でこの本の店主たちの言葉は、わたしが普段見ているより更に素顔に近い感じがして、もともと好ましいと思っていた人やお店のことが更によくわかって、もっと好きになってしまう。台湾で台湾の読者向けに出版された原書が、日本語に翻訳されて読むことの出来る妙味だろう。

日本とおなじく出版不況という雨風二モマケズ、台湾で個人経営でがんばってる個性的な店主たちに取材したこの本書が出版されたのは2014年のこと。だから、残念ながら閉店してしまった書店もいくつもある。しかし同じようなこころざしを抱いて新しく開店したお店もある。
どのお店にも共通するのは、書店という場を通して台湾と文化について考え続けていることだ。ぜひともまずはこの本を手に取ってそのエッセンスにふれ、あらためて台湾の書店を訪れてみてほしい。

http://shop.thousandsofbooks.jp/items/20387295

2019年7月3日水曜日

【展覧会】見えていない、ということを見る~結界と曼荼羅/下瀬信雄展


ここ近年スーパームーンという言葉をよく聞く。
「今日はウン何十年に一度のスーパームーン」と聞くと、(この前もウン何十年ぶりって言ってなかったっけ?)と思いつつ、いそいそとベランダや外に出て月をさがし、見つければ決まって「わあ!」と声が出るほどに綺麗である。
そして決まっていそいそとスマホかミラーレスカメラを取り出して撮影するのだが、画面に映し出されたものを見てやはり決まってガッカリする。
肉眼で見たほどに、まったく大きくも綺麗にも写らないからである。そして「人間の眼ってすごいなあ」とつくづく思う。たぶん皆さん似たような経験をお持ちなのではないだろうか。


人間の眼はすごい。
ピントをわざわざ合わせずとも、見たいと思えば自然とピントが合うし、見ているモノの息遣いや質感まで捉えることができる。見たいもの以外を視界に入れず、対象に集中することもできるが、大抵それは何かしら調節をせずとも自動的に行われるのである。

もちろん短所もある。
みたいものだけにピントがあう人間の眼は、二点にピントを合わせること、または広角ではっきりとみることが出来ない。花に視点を合わせてうつくしさを感じながら、さらに50センチほど脇に飛んでいる蝶を「いるな」ぐらい感じることはできるが、愛でることは難しい。
でも確かに蝶はそこにいる。

蝶にピントをあわせると、今度は花が見えなくなる。つまり、蝶を目ん玉真ん中の黒目部分で見ているとすれば、花はわたしの「白目」の部分でみているとということになる。
もうひとつ、「見たいようにしか見ない」という弊害もある。探し物をしていて、別の場所にあると思い込んでいるので足元にあるものが見えなくて長い事ウロウロと探し回ることが、わたしにはよくある。良かれと思い込んで脇目もふらず行動してしまったことが、思いがけず誰かを傷つけたり迷惑をかけてしまうこともある。


だから山口県立美術館で行われている写真家・下瀬信雄のとくに「結界」シリーズをみることは、自分の白目部分を確認しながら「わたしがみえていないということをみる」ことによって、これまでの自分の物の見方を振り返るような体験だった。
カメラがとらえた視界すべてのものが、そこに映りこんで目の前に迫っている。映っているのは山口の植物や山の風景だ。とくに下瀬さんの暮らす萩は山口県の山陰側にあるので、小学生の時期を萩と下関の間のあたりで過ごしたわたしにとっては、「オニユリ」「オオケタデ」「シシウド」「ヒメオドリコソウ」など馴染みのある植生である。にもかかわらず、それはわたしの見たことのない視界だ。いや、見ていたのだけれど、見えてなかったのだ。
画面すべてのものがはっきりと緻密に映りこんでいるので、まるで平面画のようにみえる「結界」は、インドやチベットから伝わった仏教画の影響を濃くうけた平安の絵巻物から浮世絵など二次元的で緻密な平面画を特徴とする日本の伝統的な絵画を彷彿とさせる。
もうひとつ連想したものが「曼荼羅」図である。そこには一見では見えないながら、世界や宇宙そのものの設計図が描き込まれていると聞いたことがある。


「結界は『浄界』と『不浄界』、内と外を隔てる装置ではあるけれど、強固な壁があるというわけではない」
「私はその境界に立って思うのだ。私が張った結界を山仕事や農作業の人たちは自由に行き来し、羽ばたく鳥は軽々と飛び越える。風や虫の声は、そこに結界があることなど意に介さぬようにふわふわと出入りする。しかし、確かにそれは存在する」(下瀬信雄『結界』2014年/平凡社)


「結界」という言葉も元はインドのサンスクリット語から来ているそうで、「結界」を撮ることは自然を学ぶ術であるとも下瀬さんは語っている。曼荼羅のなかに描かれるのが世界の設計図だとすれば、下瀬さんもまた、足元の自然そのものの姿にわたしたちの暮らす世界の設計図を見つけ、写真を通してみる側に伝えてくれているのかもしれない。
結界シリーズ以外でも、楽しい作品がたくさんあった。写真館の仕事をするなかで、どうしても出現する被写体が目をつぶってしまうNG写真ばかりを集めた『ポートレート』(1976発表)や『サンタモニカの風』をはじめとする「日本点景シリーズ」は赤瀬川源平らの「路上観察学」の影響や都築恭一の日本ロードサイドシリーズなどへの接続がみえて、現代美術的な文脈においても、下瀬信雄が非常に日本的な写真家であることを物語っている。

岡田館長のお計らいで、会場に来られた下瀬さんと、座ってしばらくお話をさせてもらった。驚くほど広範な知識の持ち主で話は尽きず、まるで下瀬さんの『結界』と同じで境界に強固な壁はなく、そのおだやかな懐に自由に入り込んで遊ばせてもらっているようで、同じく「とっても偉い人なのに、全然偉そうなところがない」方だったという、下瀬さんと同じく山口にゆかりの深い国分直一先生のことを思った。
山口県立美術館開館40周年記念展の「下瀬信雄展」会期は7月7日までで残り僅かなのですが、本当に素晴らしい展覧会なので、特にご近郊でいらしてない方、ぜひとも足を運んで頂きたいです。
山口県立美術館ウェブサイト
https://www.yma-web.jp/



2019年4月22日月曜日

【イベント体験報告】台湾探見・探索日本 @台北田園城市

昨日は、中山の独立書店・田園城市で開催中の連続講座「台湾探見・探索日本 ~Discover Taiwan Week 2019年4月20日-5月5日 」に行ってきました。休日ということで三コマの講座がありました。
1コマ目は、交流協会の外交官から華麗に転身、現在は俳優/シンガーソングライター/コラムニストとして台湾で活躍する異色の経歴をもつ馬場克樹さん。台湾の自然や文化にインスピレーションを受けた自作の曲を披露しながら日台混成文化の魅力について語るという、馬場さんならではのワン&オンリーなものでした。馬場さんと知り合って何年かになりますが、実は馬場さんの歌声を生で聞いたのは初めて。「日本の費玉清」との異名もとる甘い歌声で、歌われるのは台湾へのラブソングともいえそうな、愛情を感じる素敵なトークでした。

2コマ目は、毎回出る度に台湾文青界の大きな話題をさらう知日雑誌『薫風』の編集長・姚銘偉(ジョン・ヤオ)さんより、「伊勢神宮」についてディープな解説。じつは山口市には、日本ではじめてお伊勢さんの神様を勧進した山口大神宮があり、お伊勢さんと同じく式年遷宮も行われているのですが、それがどういうものなのか詳しく知らなかったので、とても勉強になりました。わたしが台湾についての話を台湾の人にして「知らなかった!」と驚かれるように、台湾の方による日本の話を日本人が聞いて驚くこともホント多くて、台湾と日本の間には「鏡」があるみたいだなーとよく思います。自分の姿って鏡に映さないと、あまりよくわからないものです。

最後に、いつも大変お世話になっている青田七六の水瓶子のトーク。青田七六は、台湾の今のリノベカフェブームの先駆けともいえる存在ですが、それにどんな経緯と苦労があったかという経営秘話はとても貴重で、日本でも今進んでいる古い建築のリノベーション経営にも参考になる話だと思い、六月末に行われる予定の水瓶子・渡邉孝義先生とのトーク@尾道で是非話してもらいたいと思いました(私も通訳で参加します!)
それにしても、「日台文青対決!!!」とでもいえそうな、どれもディープで聞きごたえのあるトークばかり。さすが日本における台湾紹介に長年尽力されてきた片倉佳史・真理ご夫妻のご企画だと唸らされます。これが、5月5日までマラソンのように毎日、この書店の地下で行われているというのは、本当にすごいこと。
 それで思い出したのが、非常にローカルな話ながら、大学のころよく遊びに行ってた大阪の難波ベアーズというライブハウスのこと。階段を降りていくと地下の小さなステージではいつも、何かしら面白いバンドの演奏が見られ、行けば見知った顔が何人も居て情報交換したり、たまに自分も出たりと、あの頃の日本のインディーミュージックシーンの「イマココ」を体現した刺激的な場所でした。
 内容は全く違うとはいえ、後々までその世界にいろいろな影響を与える場という意味で、現在の日台文化交流の「イマココ」をリアルタイムで生み出しているこのイベントの意義は、とてつもなく大きくなりそうな予感。5月5日まで行わなわれています。是非とも足を運んでみてください~~!栖来も5月2日に、山口と台湾についてのお話をさせてもらう予定です。

ちなみに、田園城市から双連の駅に抜けるまでに、すごくいい暗渠路地ありますので歩いてみてくださいね♪

2019年3月21日木曜日

【書籍紹介】太陽の残光をぐびぐびやる物語。


♦新編・ワインという物語~聖書、神話、文学をワインでよむ
♦大岡玲・著
♦天夢人・刊(2018)

 ごくごくたまに「教養がある」などと褒めていただけることがある。とても有難くはあるが、余りにも畏れ多くおそろしい言葉である。そんなとき真っ先に大岡玲さんの顔が脳裏に浮かぶ。そして首を垂れてどこかの穴に駆け込みたくなる。「教養」という言葉は、無類の読書家で古今東西の世界文学に通じている大岡玲さんみたいな方のために、あるとおもうのだ。
 そんな大岡玲さんは本だけでなく無類の酒好きで、酒を前にしているときは、こ難しいことはいっさい言わずニコニコワハハと相好を崩して次々にわたしの杯を美味しい水で満たしてくれ、それが大変に愉快なのでこちらもウキウキと杯を空けながら大岡さんという象の鼻辺りを撫でているうちに、いつのまにか記憶がふっとぶ。ある人はそれをみて「花に水をやるように酒を注ぐ大岡さん」というとびきりの形容をしてくれた。

酒の効用とはなにか?
と問われて即答しようとした先から、辛い二日酔いや「あーやっちまった」という後悔を思い出しては気持ちが沈静してしまうのだけれど、絶対に効用はあるはずで、なければこんなにも長い間人類と関わり続けている嗜好品はない。
だから「人類の文明は酒に酔うことなしには始まらなかった」というコリン・ウィルソンの名言から始まる、西欧文学に精通した大岡さんが文学作品を通してワインを読み解くこの本が、面白くないわけがない。「ワインは我が血」といったキリストの一句はあまりにも有名だけれども、ではモーセが連れ出したイスラエルの民が長らく約束のカナンの地を踏めなかったことに、ワインが関わっていたなんて微塵も知らなかった。
「飲めば酔うに決まっているものを、飲んでも酔うなとは無理難題である。この無理無体な物の考え方が、のちのキリスト教世界、すなわりヨーロッパの指向に少なからぬ影響を与えることとなった。それは、一言でいうなら、二枚舌ということである。表向きは戒律を守り、その裏では思う存分酔っぱらう、といった二重性。これが、ヨーロッパの文学に繰り返し登場する善悪の対決という主題に投影されているのだ。」
うーん慧眼としかいいようがない。

本書はその後もギリシャ神話『オデュッセイア』、ローマ帝国時代を象徴する『アエネーアス』『サテュリコン』やイギリスの『アーサー王の死』『カンタベリー物語』と広大なヨーロッパ文学史をぶったぎり、あらゆる時代と場所の「ワイン」を飲み干しながらすすむ。飲み干すのは、袋か、樽か、瓶か。その容れ物の違いと発展にだって民族と歴史が関係してくる。そして各章の最後で繰り広げられる、ワインの伝道師として知られる勝山晋作氏と大岡さんとで選ばれた「当時の人々が飲んでいたものに一番近い」ワインの試飲は、あまりにも美味しそうなので、羨ましさにのたうちまわりながら読み進む羽目になる。
とりわけ、わたしも好きなマディラやシェリーについての章で出てきた「太陽の残光」という大岡さんの言葉には飛び上がるような感動があった。かの吉田健一も、ワインを表現するのに「急に何か日が当っている場所に出たような、あるいは、日光が体の中に差し込んだのに似た感じになる」と言っていた。日光をいっぱいに浴びた宝石のような葡萄で出来たワインには太陽がつまっている。
『ドン・キホーテ』を語る章では、勝山氏と大岡氏の試飲会で用意されるのはイスラム教、ユダヤ教、キリスト教がモザイク状になったスペインのラ・マンチャやエストレマドゥーラなどのワインとソーセージ。それを飲み食いしながら語られるのは、現代世界の中でも対立し奪い合うその三つの宗教が、『ドン・キホーテ』のなかで元を同じくした兄弟として記述されている話だ。
三日前、ニュージーランドのイスラム教モスクでのテロの映像をみた。ワインでも飲まないと正気を保っていられないようなこんな時代だからこそ、歴史と文化への理解という「知性」を持ってワインに相対する本書が、新編としてもう一度刊行されることの意味を深く考えさせられる。

ところで、本書は新編ということで最後に21世紀のワインとして紹介されているものが、個人的にはじつにタイムリーだった。「ヴァン・ナチュール」と呼ばれる自然派ワインのことで、昔ながらの方法で造られたワインを言う。
さいきん毎年、漫画家やフードライターや料理研究家として日本で活躍している友人たちが台北に遊びに来るのだけれど、来るときにスーツケースをこの自然派ワインでいっぱいにして来てくれる。台湾のレストランは基本的に飲み物が無料や安くで持ち込みができるし、この「ヴァン・ナチュール」はとにかく台湾の料理に合う。台湾だけではなく、本当にどんな料理でも合うと思うのだけど、彼女たちと一緒にレストランに行ってはこれを飲んでいるうちに、だんだん「もうヴァン・ナチュール以外のワインは身体に入れたくない」なんて思ってしまったぐらいに、ハマってしまった。こうして彼女たちのおかげで自然派ワインに開眼した訳だけれど、台北で手に入るところが見つからない。もし資金さえあれば、台湾でインポーターになりたいぐらい。
だから本書を読んで、この勝山氏こそ、「ヴァン・ナチュール」を日本に紹介した伝説的人物であることを初めて知った。そして本書を大岡さんにご恵贈いただいたときに、その勝山氏が昨年の秋に亡くなられたことを伺った。これまで存じ上げなかったことがなんとも悔やまれるけれども、勝山氏のおかげで「ヴァン・ナチュール」が日本で飲めること、ただただ感謝したい。
「ヴァン・ナチュール」のおりがらみの黄金色かがやくグラスをみながら、シルクロードの最も端っこで最初にワイン造りが行われたともいわれるジョージア(グルジア)の、小屋のなかで土に埋められた素焼きの壺から直接ひしゃくでグラスに注がれたワインに想いを馳せる。
まさに「太陽の残光」というにふさわしい。


新編・ワインという物語

2019年3月18日月曜日

【台湾スリバチ報告①】

ルーズベルト通りを歩いていたら気になる路地発見。入ってみると、ジメジメと苔むして濡れた暗渠サイン。
水路地図を確認するとやっぱり変な鍵型水路がここを通っている。

霧裡辟圳支線で1972年廃止、つまりこの角の盛り上がりは水路遺構! 
姉さん、上物暗渠です!!! 

路地を師大路のほうに抜けると、そこはY字路だった。
久しぶりにいい物件に出会った夜、台北の夜。


2019年3月11日月曜日

舞台『時光の手箱』~過去の手箱は、未来の手箱でもある。


一青妙さんの原作をもとにしたお芝居『時光の手箱』を観に行った。台湾の五大家族の一つである名門の「顔家」の長男だった一青姉妹のお父さん顔恵民さんと日本人妻の一青和枝さんを主人公に、一青妙さんがご両親亡き後見つけた小箱の中から、知らなかった家族の物語を見つけていく物語。
実を言えば同じテーマを原作とした映画『ママごはんまだ』では登場人物の心情や一青さんのお父さんお母さんがどういう人物だったのかが伝わって来ず消化不良気味だったのだが、今回の舞台はお父さんとお母さんの出会いから別れ、それぞれの苦悩や喜び、台湾語·日本語·中国語でのセリフから読み取れる台湾の歴史の複雑性、何より一青妙さんご自身がご両親の物語を取り戻すことによって苦しみを手放していく過程が手に取るようにわかり、とても見ごたえのあるものだった。
お母さんの和枝さんを演じる大久保麻梨子さんが素晴らしい。名門の家の長男として複雑な時代に生まれ「自分の人生なのに何一つ自分で決めることができなかった」顔恵民さんが、自分の人生で唯一決めた事が和枝さんと結婚することだったというセリフに対して、大久保さんの表現する、負けん気が強くまっすぐで愛情深いチャーミングな和枝さん像がとても説得力を持っていたように思う。
冷静に見られない表現もたくさんあった。
和枝さんと恵民さんの結婚生活は14年。わたしも来年で、台湾に来て14年目を迎える。
和枝さんが台湾に初めて来て恵民さんが迎えに来てないのではないかと思ったところはわたし自身初めて結婚のために台北に着いたときの不安と重なったし、家族の話している言葉がわからず疎外感にさいなまれた日々、誰にも悩みを話せず独り穴の中に暮らしているような感覚、子供に見られないように布団にくるまって泣きじゃくった夜、和枝さんはわたしであり、そしてわたしの知る、同じように台湾に嫁いできた多くの日本人妻の誰かであるように思えた。
また鄭有傑さん演じるお父さんの恵民さんの苦悩もまた「祖国はいつも海の向こう」と書いた劉心心さんはじめ台湾の日本語世代の方々の心情と重なるところがある。
「日本」は、「台湾」は、わたしたちにとって行くところなのか、それとも帰るところなのか?
だから、この舞台で出てくる多くの「椅子」に座っているのは、お芝居をされている俳優さんたちだけでなく、観ているわたしたちでもあるような感覚があった。その飛行機の空いた座席に座っていたのは、或いはわたしだったかもしれない、というような。
じっさい、舞台に向かい合ってる客席には今回、私だけでなく多くの国際結婚をして台湾に来た方々が座っていたと思うが、いろんな複雑な背景を持つ台湾で顔家に相応しいお嫁さんになろうと奮闘した和枝さん、また日本へ「帰りたい」と願った恵民さんの姿は客席にも照射されて、あの一つの空間にいろんな人たちの物語が渦巻いていたような気がする。
行くのか、帰るのか。過去に向かっているのか、未来に向かっているのか。
少なくとも「過去にむきあうことは未来へ進むことである」ということを、このお芝居が改めて教えてくれたように思う。