2016年9月27日火曜日

【日本映画】Love Letter 情書~ 桜の樹のしたには、恋心が埋まっている。



「桜」ときいて、おもいだす風景が3つある。どれも、京都に住んでいた11年間にみたものだ。

戦前からあると言われる北白川ぞいの「銀月アパートメント」を見守るように生える枝垂れ桜のある景色。詩人であり、歌手であり、河原町の老舗喫茶店「六曜社」地下のマスターでもあるオクノ修さんの唄を、ここで聴いたのがひとつめ。
ふたつめは、鴨川沿いでよく花見をしたときの景色。
近くでみる花も美しかったけれど、すこし向こうにみえる今出川通りの橋まで、ソメイヨシノの桜並木がシャンパンの泡みたいにムクムク沸き連なっていた。
みっつめも、枝垂れ桜。
谷崎潤一郎の「細雪」で有名な「御室の桜」から、ほそい道を広沢池に抜けるまでの脇にある「植藤造園」の敷地内に佇んでいた樹だ。
名高い円山公園のしだれ桜のお世話をしている造園会社で、円山公園の樹とは兄弟の関係にあたる株ときいた。紅白のちいさな餅を枝にかざった飛騨高山の「もちはな」で、夜空が覆われたみたいだった。八方にのばされた無数の指のあいだから、もうすぐ満ちる月が青梅の色を帯びてひかる。禍々しいぐらいに綺麗でおもわず、梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる」という一節をおもいうかべた。



20年ぶりに台湾でデジタルリマスター上映された、岩井俊二監督の「Love Letter」。台湾でのタイトルを「情書」という。
台湾の「文青」と呼ばれる層(日本語でいう文系男女?)のあいだでは、文学なら村上春樹、映画なら岩井俊二ってぐらい圧倒的な人気を誇る岩井俊二監督の長編デビュー作で、平日のお昼に観にいったけれど結構な客入りだった。

「おげんきですか?わたしはげんきです」

中山美穂の声で読み上げられる、この有名なあいさつ文は台湾でも流行したようで、FBでも
「你好嗎?我很好」
「だめ、これだけで泣ける!」
などの書き込みが飛びかった。この夏公開してヒットした青春映画「六弄珈琲館」原作・監督の藤井樹(吳子雲)の名前が「Love Letter」の主人公からきていることからも、台湾での人気のほどが伺えるとおもう。
わたしも昔ビデオで観た気がするが、今回あらためて観かえして、はじめて観るような新鮮な感じを覚えたし、長らく名作として残る映画ってやっぱり違うなあと思わされた。
20年前に台湾・韓国・香港・シンガポールなどアジアで公開されて爆発的なヒットを記録した作品だが、国外でいちばん最初に封切られたのが台湾だったため、シアター脇にある宣伝映像の中で岩井監督が「台湾には特別な思い入れがある」と語っていた。
今回の台湾での再上映に際し、一人二役を演じた中山美穂がお忍びで観に来ていたことも話題になった。


神戸に住んでいる渡辺博子(中山美穂)は、3年前に山の事故で婚約者の「藤井樹 ふじい・いつき」を失った。三周忌に樹の母親から、北海道の小樽に住んでいた中学生のころのアルバムを観せてもらった博子は、当時の住所をこっそりと書き留め、天国の樹に宛てたつもりで手紙をおくる。
数日後、小樽より博子の元に、くるはずのない樹からの返事がとどく。
差出人の正体は博子の恋人だった樹と中学校の3年間を同じクラスですごした、同姓同名の女性「藤井樹」(中山美穂/一人二役)である。
博子は恋人が中学校の頃どんなだったかを教えてほしいと、女・樹に書きおくり、ふたりの文通がはじまった。

このお話は、中山美穂演じるふたりの女性がたどる「過程」が軸になり、おなじ「樹」という名前をもつふたりの男女の「初恋」がキーワードとなって、展開する。
ひとつは博子が、亡くなった男・樹の隠していた「初恋」を発見しながら、執着を手放していく過程。
もうひとつは女・樹が、博子からの手紙をきっかけにして記憶のなかに埋もれていた「初恋」を取り戻していく過程である。


小樽に暮らす女・樹の回想は、中学校へ入学するシーンからはじまる。
はじめてのクラスルームで先生からじぶんの名前を呼ばれた時、もうひとり同時に声をあげた生徒がいた。男・樹との初めての出会いだった。
入学式の日、白樺並木をあるく生徒たちの足元に桜の花びらが舞う。
小樽の桜の開花はだいたい5月上旬ときく。学校の入学式は4月上旬だから、この桜は季節的にいうと映画的リアリズムから外れてしまう。でも、ここにはこの桜が必要だった。これは桜が、埋もれていく記憶=恋心のメタファー(隠喩)だからだ。
花吹雪という言葉があるように、桜の花びらが散るのと雪が舞う景色はどこか似かよっている。桜=雪なのだ。
坂口安吾が「桜の花びらにまみれて美しい鬼が死んでいる」と「桜の森の満開の下」のなかで言い、梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」とさけぶ。そしてこの映画では、男・藤井樹の死体はいまも雪山にねむり、女・藤井樹の恋心は雪のなかにねむる。
以降、現代の女・樹はいつも生活のなかに雪を抱えて過ごしている。


「雪」が象徴的なシーンはいくつもある。
博子が、男・樹の親友で博子に片想いしている秋葉茂(豊川悦司)と連れ立って小樽にいき、かつて男・樹が住んでいた住所のあたりを訪ねるところの雪も「恋心」をあらわす。そこは道路が開通しトンネルになっていて、トンネルの内側は雪が積もっていない。博子は、その雪が積もる境目に立って中には入らない。「このあたりだったのね」と言って、トンネルの外側にいる。樹への恋心が積もった上に、まだ博子は立っていた。


小樽の街中では、道路でビショビショに溶けかかった雪のなかで、同じ顔をもつ博子と女・樹がすれちがう。博子が、男・樹の秘められた恋心に気づく瞬間である。博子の乗るタクシーを振り返った女・樹の頭には、男・樹のつけた印のように雪が積もる。


秋葉に誘われて男・樹の遭難した山を見ににいった博子が、雪に寝転んで目を閉じるシーン。
中学生のころの想い人の面影に博子を重ねたことが、男・樹がじぶんを選んだ理由だったことに思い当たり複雑な思いを抱きながらも、知らなかった樹を理解できた喜びをかんじる博子。背中に雪の冷たさをかんじる。雪が自分の身体の熱で溶けていく。
樹への執着が少しずつ手放される。手放して、生きていかなくちゃいけない。次に進まなくちゃいけない。
そんな覚悟がクライマックスの、男・藤井樹の眠る山への
「元気ですか?わたしは元気です」
という叫びに結実する(ここ、ボロ泣き)。



女・樹のほうは風邪をどんどんこじらせてゆく。中学生のときに父親も風邪をこじらせて亡くなっていたが、樹もおなじ状況に陥ってしまう。
ある夜、吹雪にどんどん振り込められる家の中で倒れた樹には、一刻もはやい手当が必要だった。救急車がくるには一時間かかるという。雪はひどくなり、それ以上かかるかもしれなかった。救急車よりも早く病院に到着するにはどうするか。
祖父は、樹の父親が亡くなった時と同じ方法、背中におぶって病院に走る方法しかないと提案するが、母親は反対する。
「おじいちゃん!こんどは樹をころすつもりなの!?」
心のどこかで樹の母親も樹自身も、夫を、父を、死なせてしまった祖父を許していなかったのかもしれない。降りしきる吹雪のなかには、父親の死もまた埋まっていたのだった。
父親が亡くなって学校を休んでいたとき、雪の積もったなかを、男・樹が訪ねてくる。父が亡くなったことを告げると、たどたどしく「ご愁傷様でした」と応える男・樹をみて、女・樹はおもわず笑みをもらす。祖父のせいで、父親が死んだ。そんな現実がまだ受け入れられなくて、人が亡くなったときの挨拶である「ご愁傷様」という言葉がうまく消化できずに出た笑いだったかもしれない。
それが男・樹と会った最後だった。
受け入れられない父の死とともに、男・樹への恋心も凍りつき記憶の底へと埋もれていった。

目が覚めると、樹は病院のベッドのうえにいた。隣にはくたびれて一緒に入院した祖父がイビキをかいて寝ている。
祖父がじぶんを助けてくれたんだ。
祖父が父親を殺したのではなかったかという、母親と樹の誤解は氷が解けるように無くななる。

家に帰ってきた樹を待っていたのは、雪解けのはじまった庭である。
そして間も無く、じぶんに恋していた男の子の痕跡が残る中学時代の図書館の本が、樹の元に届けられた。
樹は永い眠りから覚めたみたいに、たしかにあの頃じぶんも好きだった男の子がこの世に生きた証を、春の訪れのなかで噛みしめるのだった。



ところで、最後に届けられる本とは、マルセル・プルーストの「失われたときを求めて」である。
主人公がある日、紅茶にひたした「プチット・マドレーヌ」の味をきっかけに幼いころを過ごした「コンブレー」での出来事をまざまざと思い出していくところから始まるこの「失われた時を求めて」は、ひとつの出来事によってなにか他の記憶がよびさまされるというような、「無意志的記憶」(意識のなかに埋もれてしまった記憶)の手法によってつくられた物語だ。
プルーストは多くのメタファー(隠喩)をこの作品に込めているが、岩井俊二が使っている手法も正にそれで、「女・樹が経験したある現実の体験がそれに類似した過去の経験を呼び起こす」仕掛けとなっている。
またプルーストはこの作品について、「二つの感覚のエッセンスを引き出し、時間のもつ偶然性から感覚を解放するようにして、一つのメタファーの中に二つの対象を含ませる」とも言った。
岩井俊二も「藤井樹」というひとつのメタファーの中に、男女の樹という二つの対象を含ませた。「Love Letter」というタイトルは、博子から男・樹に宛てられたものと、図書館カードに名前を残すという形で男・樹が女・樹に宛て送り続けたもの。雪は「恋」と「死」、記憶は「雪」と「桜」など、いろんなキーワードが二重のメタファーとなっている。
そういう意味で、恋の痕跡がのこされた図書カードの挟んであった「失われたときを求めて」は、この映画のひとつの種あかしともいえる。



わたしの「コンブレー」は京都である。
このまえコンブレーに帰った時に鴨川の三角州をみた。かつてそこで桜をみたとき傍に居た人をほのかに好きだったのを思い出した。
また、思い出した。御室の桜をみながら、一緒にみていた恋人との別れを予感したことを。
六曜社地下のマスター・オクノ修さんの唄をきいていたときは、銀月アパートの一室に桜の花びらがふと舞い込んでいたような気がするが、それがほんとうのことだったか、今となっては確かめるすべもない。
こんどコンブレーに帰ったとき。次はなにを思いだすだろうか?





















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