2016年11月18日金曜日

【李安作品】 Billy Lynn's Long Halftime Walk~ アン・リー最新作「ビリー・リンの永遠の一日」を劇場で観るべき、たったひとつの理由。




じつのところ、台湾では評判のあんまり芳しくないアン・リーの「比利‧林恩的中場戰事 (邦題:ビリー・リンの永遠の一日)」である。
いくつかネットで観た論評を要約すると、「ストーリーは悪くないが、前宣伝で期待してたほどの映画体験が得られなかった」ってことだ。
映画史初の3D✕毎秒120フレーム(昔のテレビが毎秒24フレーム、その後出たデジタルビデオが毎秒30フレームといえば、その映像の細かさがわかるだろう)という未だかつて無かった挑戦で、メディアの前宣伝では「まるで現場にいるかのような臨場感」と絶賛され、アン・リー自身の口からも「未来型3D」という言葉がでて、だれもが期待と興奮で映画館にのぞんだはずだ。

台湾ではいまのところ、この映画が最高の状態120フレームを損なうことなく観られるのは、台北駅ビル内の「京站威秀」だけである。そしてそのチケットは800元する(普通の映画館は250~300元ぐらい)。
台湾のネットで論評している人は殆どが800元払ってみている(もしくは試写で800元と同じ状態で観たかもしれないが)。そんな彼らにとって、今回のアン・リーの新作は「800元払う価値があるとは思えない」ということらしい。


わたしは結局、普通の映画館の3D上映(280元)で観たので、さしてがっかりしなかった。まるで自分がドローンに変身して主人公にひっついて飛び回っているかのような浮遊感を感じる映像にはそれなりに興奮したし、「戒/色 ラスト・コーション」や「ライフ・オブ・パイ」ほど好きな作品じゃないが、ストーリーも十分に面白いものだと思った。美味くて評判の料理屋にきて、ワンランク上のコース(800元)にすればお造りの品数が二品増えるのとシェフ推薦の熟成肉のステーキが付いてくるんだけど、まあそれだと量が多すぎるからと思い、実際ワンランク下のコースを食べてすでに美味しくて割と満足したって感じだろうか。
でもシェフの推薦を外すわけだから、今度来た時はそれ頼むからね~みたいなちょっとした申し訳なさと、次回への期待の余地も残されている。
そんな訳で、この映画を800元払って観た人と同じ場所から批評することは難しいということを最初に断っておく。
断ったうえで、この作品をやっぱり劇場で3Dで観ることをお薦めしたい(800元でなくてもいいから)。

(※以下はネタバレが含まれます)


イラク戦争に派兵された若きアメリカ兵ビリー・リンは、所属するB班の隊長が戦闘中に撃たれた際に敵兵に対して取った勇敢な行動がニュースに取り上げられ、一躍「祖国の英雄」となる。仲間と共に一時休暇で戻ったアメリカ・テキサスでも熱狂的に迎えられるが、戦地で極度の緊張状態にある後遺症としてPTSD(心的外傷後ストレス障害)によるフラッシュバックに悩まされる。
家族はみなビリーを暖かく迎えるが、唯一イラク戦争に反対している姉だけは、成果を出したのだから、もう戦地には帰らず戻ってきて、PTSDを治療して欲しいとビリーを説得するのだった。
ビリーと仲間のB班は、アメリカン・フットボールの試合に招かれ「英雄」としてハーフタイム・ショーに出演することになる(と言っても立ってるだけ)。一同を迎えに来たのはハマー・リムジン(黒人ラッパーのMVとかでしか観たことない、バーカウンターとレザーソファーが内蔵された物凄くラグジュアリーなリムジン)という超VIP待遇で、B班の物語を映画化したいというプロデューサーまで現れた。映画化の資金が取れて皆の出演が決まれば、ひとり10万ドルのギャラぐらいは出るかもしれないと言われ、大喜びするB班たち。
また、ビリーはチアガールの中のひとりの女の子に一目惚れし、彼女のために姉の説得を受け入れて戦地に戻らない選択肢について考え始める。
「英雄」として迎えられる気持ちよさを存分に味わいながら会場に入り、ハーフタイムショーでは”ディスティニーズ・チャイルド”(ビヨンセが在籍していたグループ)らと共に舞台にあがって高揚感を得るB班のメンバー。だが、一方で失礼な態度や待遇も受け次第に高揚は冷めていく。アメフトのスポンサー(スティーブ・マーティン!)も映画の資金として、B班の物語にかけられる金は全部でせいぜい5500ドルぐらいと買い叩く。
そうしてビリーを始め、B班のメンバーは祖国にもどって与えられた「英雄」という称号の安っぽさに失望し、自分の居場所は「戦場」しかないと考えるのだった。




カメラは、ビリーの目線/ビリーを観る人の目線/スクリーンを観る私たちの目線というレイヤーを単純な入れ子構造ではなく、複雑にからませることによって、現場のリアリティを浮き出させることに成功している。
宣伝でも目玉となっていた、ビリーからの目線で繰り広げられる”120フレーム✕4K✕3D”のハーフタイムショーは特に圧巻で、ビリーの現実をわたしたちも追体験できるしくみになっており、盛大でゴージャスなハーフタイム・ショーで爆発する花火と戦場の爆発とが交互にフラッシュ・バックし、わたし達はビリーと一体化して戦場と舞台を行き来しているような感覚に陥る。

とくに面白かったのは、ショーに登場するディスティニーズ・チャイルド(もちろん吹き替えだけれど)のメンバーの顔が全く見えないことだった。
手を伸ばせば届く距離にありながら、ビリーは一度もビヨンセの顔を観ることがない。ビリーからの目線だと、彼女たちの後ろ姿しかみえないのだ。
正面からの姿はスーパーボウルを見に来ている会場の観客だけのものだ。現場のまっただ中にいる人は、それを全体から眺めて楽しむことはできない。
湾岸戦争がはじまったとき、デジタル技術の発達により現地からほぼリアルタイムで映像がテレビへと届くようになり、空爆のミサイルをまるで打ち上げ花火でも観るような感覚で観ていたことをおもいだす。瓦礫の下にはたくさんの一般市民が下敷きになって血を流していたはずだが、「お茶の間」でくつろいでいる観客にそんな映像は届かなかった。本物の戦争が映っているのにも関わらず、そこにあるのは徹底的に「非リアル」な感覚だった。


そうなのだ。
どんなにその時に最高の技術を駆使したところで、結局はビリー達と同じリアリティを味わうなんて不可能だ。ビリーからの目線での戦場の映像を観ていたとき、わたしは自分がドローンとなってビリーの顔のすぐ横を飛んでいるような感覚をもったと先ほど書いた。
しかしドローンは勿論生身のわたしではない。ドローンが撃ち落とされたところで、現実のわたしが傷を負うわけではない。いかにそれを臨場感ある映像で体験しても、それはアメフトのハーフタイムショーと同じなのだ。試合で応援しているチームが負けたとしても、終われば皆それぞれじぶんたちの家に帰ることができる。
でも、戦争のまっただ中にいる人は違うのである。
死の恐怖と戦い、家族との別れに震え、恐ろしい戦闘のフラッシュバックに悩まされる。そんな彼らが生きる場所は戦地しかない。
戦争とは人々の「帰る場所」を奪うことである。


ビリーの中で幾度もフラッシュバックする場面に、戦場で隊長を撃った敵兵の中東人の男を刺殺するところがある。ビリーが英雄に持ち上げられた所以のシーンだ。
首を刺したときの鈍い音。じんわりと後頭部に広がっていく血。
時代劇みたいに「ザクっ」と音がしたり血が飛び散ったりはしない。細心の注意を払って刺された人間が死んでいく過程を「リアル」に描いているようにみえる。
しかし、その死んでいく男の目には、何も映っていない。ビリーの目線なのだから、普通ならビリーの顔が写り込んでいるはずだ。普通の映画なら、普通の演出家なら、「リアリティを出すために」そういうふうに撮るとおもう。瞳に写り込んだ「カメラ」をCGで消し、そこにビリーの顔を移植する。

でもアン・リーはそんなことはしない。

そこに何も映さない。ただただ、深くて暗い闇をのせる。これは映画自身による「わたしはリアルではない」という告白なのだ。どんなに映像的リアリティを追求したところで、そこに本当のリアルはないという事を映画自身が語ってしまう。
そんな風に、この映画のいたるところに密やかに、アン・リーのメタフィクションの「罠」が仕掛けられている。
ちなみに『背中』というのもこの映画の中の大事な要素である。なぜなら人は自分で自分の背中を観ることは出来ないからだ。観客はビリーの視線で映画を観ながら、同時にビリーの背中を観ることができる。つまりわたしたちは、ビリーではない。


このストーリーを120フレームで撮る価値があったのか?原作選びをまちがえたのではないか?
わたしはそうは思わない。
もっとアバターのように、それに見合った題材があったのではないか?そんな論評もみた。
しかしそれなら、李安はもう「ライフ・オブ・パイ」で已にやってしまっているじゃないか。
このストーリーだからこそ、この技術で作らなければならなかった。
戦争体験を「リアルに感じる」ことがどれだけ「非リアル」な事なのか、それを証明するために使われたことのない技術に敢えて臨む、それがアン・リーが「ビリー・リンの永遠の一日」で挑戦したことではないだろうか。

以上はすべてわたしの深読みでしかない。莫大なお金をつかって、血を吐くような困難を抱えながら、そんな事に挑戦するのは一見馬鹿げたことにおもえる。
でも、アン・リーは普通の映画監督じゃない。天才なんである。リアルに対する「映画」の不完全さを誰よりも深く感じながら「でもやるんだよ!」の人なんである。
だから、わたしたちはいつも、アン・リーの背中ばかり追いかけているのである。


そういう意味では、本当にこの映画を「体験」するには、やっぱり800元払って「何だかなあ」と思うのが正解なのかもしれない。
あまりにも逆説的にすぎるかなあ・・・








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