2016年12月30日金曜日

【台湾映画】再見瓦城(ネタバレ有)~男と自己実現は二者択一なのか?



「感謝台湾電影!感謝台湾!

生きのびる以外の夢を見ることは許されないようなミャンマーの片田舎で生まれた子供が、今ここで、今年もっとも優れた監督に選ばれました。
これがひとつの、人に勇気を与えるサクセスストーリーと呼べるとすれば・・・
まさにここ台湾こそが、そんな物語を生み出せる場所なのです。」

今年の金馬奨6部門でノミネートされたにも関わらず、無冠におわった台湾映画「再見瓦城」だが、その代わり、監督自身はその年に台湾で最も優れた映画人に与えられる賞「年度台灣傑出電影工作者」に選ばれた。冒頭は、金馬授賞式後に設けられたアフターパーティーで語られたMidiZこと、趙德胤監督の言葉の最後の部分だ。


趙德胤監督は1982年のミャンマー生まれで、16歳のときに台湾に来て学校に通い始めた。
趙監督を台湾へ留学させるための経費は、当時ミャンマーでは一軒家が建つのに相当したらしく、その八割方は、監督のお姉さんがタイで働きながら食うものも食わずに貯金したものだという。映画「再見瓦城」も、実際に密入国してタイで働いていた監督の兄姉の経験がモデルとなっている。監督自身の生い立ちが、先進国の日本や台湾では今時珍しくなった種類の立身出世物語ということもあってか、そのスピーチは多くの台湾人の感動を誘い、FB上で何度もシェアされ、拡散された。
わたしもその言葉に心を動かされたひとりで、メディアでの前評判も高かったし「再見瓦城」を楽しみに観に行った。そして結局、なんだか残念なきぶんで映画館をでた。


阿國(柯震東)は、ミャンマーからタイへ密入国するときに知り合った蓮青(吳可熙‬)に恋をする。
労働ビザをもっていない蓮青が、まともな職にありつけず皿洗いの仕事で苦労しているのを見かねた阿國は、自分の従兄弟が管理する紡績工場で一緒に働こうと蓮青を誘う。
紡績工場の給料は悪くないが、辺鄙な場所にあり、仕事も単調でつまらない。都会で別のもっといい職を得るための労働ビザ取得に必死になる蓮青と、お金が貯まれば蓮青を連れていつか故郷へ帰り、服飾店をひらきたいと願う阿國の心は、いつしかすれ違っていく。
労働ビザを取るさいの賄賂資金を貯めるため、蓮青は性産業に従事するようになり、その状況に耐えられない阿國は、憂さをはらすために麻薬へとはまっていく。
ついにとある朝、阿國は蓮青が暮らす部屋へ忍び込み、寝ている蓮青の胸を刺して、そのまま自分も首を掻き切り蓮青のそばで息絶えるのだった。


あらすじを書いていて、去年話題になった映画「生酔夢死」を思い出した。なんともかんとも、やるせない。そのやるせなさ加減がちょっと似ている。しかも恋人と故郷にかえってまったり暮らしたい若い男と、自己実現したい若い女。最近こんな映画どっかでありませんでしたか・・・あ、そうだ、「六弄珈琲館」だ。

「生酔夢死」の場合、とにかく最初から最後まで登場人物が飲んだ暮れていたのに対し、こっちの「再見瓦城」では、ひたすらインスタントラーメンやら麺を茹でただけの、肉どころかモヤシ1本ネギのひと欠けらさえ入ってない素の麺を女主人公はじめ登場人物たちが食いつづけるのは印象的だった。

劇中で女主人公の蓮青は、バンコク郊外の紡績工場でひたすらプラスチック繊維をつくるのを仕事としているが、その石油から出来た化繊をたぐる姿は、まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のごとく、這い上がることのできる頼りない糸をみずから必死につむいでいるかのようだ。
身分もなく身寄りもなく、同じように社会の底辺でもがいている越境者の仲間たち。誰もが一匹のちいさな蜘蛛のように、外国で小さな居場所を紡ごうと必死で糸を吐きつづける。そして、小さな巣を張っては、その糸を栄養も何もなく炭水化物を伸ばした、ただその日を生きながらえるだけの「麺」として消費する。生活にはなんら保障はなく、仕事が元で例え足を失ったとしても、得られる見舞金はわずかばかりである。彼らの存在自体が、その日その日で消費される「インスタントラーメン」そのものなのだ。


じつは半分ぐらいで「あ、さいご殺るな。」とわかってしまった。なので、そこからどういう風に最後まで組み立てていくのか、それからどう終わらせるのかを注目していたのだけれど、蓮青がはじめて身体を売るときの表現(なぜか突然、相手客がでかいトカゲの姿であらわされる。これって性的表現が苦手な台湾観客への気遣いか?)やら、阿國が地獄の炎を燃やしていて修羅の道に堕ちていく表現など観客と距離を取った描写で、どうしても二人に感情移入したり共感したり出来なかった。阿國がプレゼントしたネックレスだって、ポスターにまで登場したせっかくの小道具だっつーのに後ほど何の伏線としても響いてきやしないじゃないか。

奇しくも同じ時期にエドワード・ヤン監督の大傑作、「牯嶺街少年殺人事件(クーリンチェ少年殺人事件)」のディレクターズカット版を念願のスクリーンで観た。これと「再見瓦城」、じつは、社会が大きくうねる歪みの中で育ったプラトニックな純愛が悲劇をたどるという、似たような構造を持っている。
そして導かれる結末もほぼ一緒なのだけれど、受ける印象は全く異なる。
「牯嶺街」のほうが、何千何万というパズルピースをひとつずつ細かく積み重ねていって一つの悲劇的な図柄を納得させたのに対し、「瓦城」のほうは今一つそのパズルピースが揃わず多くが抜け落ちている印象だ。一滴ずつぽたぽたとバケツに溜まった小さな苦しみや歪みが、表面張力のぎりぎりまで漲ってついには溢れだした、「牯嶺街」にあったそんな「漲り」を「瓦城」は描けていない。「牯嶺街」とちがって、結末になんの救いも感じられず虚しく終わった気がしたのは、そんなところにある。
「再見瓦城」をみた知人の何人かが、「結末がつらすぎる」といった。わたしもそう思う。どこかしら救いのある映画がすきだ。歳をとるごとに、ますますそう思うようになった。
だってシリアのニュースをちょっとググってみればいい。
7歳の女の子が殉教するといって自爆テロをしたニュース。
アレッポの戦火のなか絶望のふちに落とされ泣くことも忘れてしまった5歳の男の子。
ただでさえ、胸が張り裂けそうになるぐらい哀しいニュースで世の中溢れかえっている。誰かの哀しみが、映像が、すぐそこまで届くこの時代、ドキュメンタリーならともかく、せめてフィクションの映画ぐらいは救いのあるものであってほしい(これは、単なるわたしの好みの問題ではあるけれど)。
でも、逆にいえば「牯嶺街」のように結末まで説得力が持続する映画であれば、そこにあからさまな救いは必要ないのである。

一番よかったのは、阿國のスクーターの後ろで雨に濡れながら泣きじゃくる蓮青の、水の中の魚の涙的苦しみだが、これと水をかけながらの楽しいパーティーの対比など、「映画記号」的には優等生に描けているものの、どうも胸に迫るものが無かった。本国で辛い立場にあるミャンマー華人の越境物語というひじょうに面白い題材を扱っているにもかかわらず、結果的に、監督のスピーチの「成功譚」が映画のいちばんの救いとなってしまったことは、何とも皮肉なかんじがする。
が、まだ35歳で、これだけのものが撮れるのだ。これからが益々楽しみなことには違いない。でも金馬奨の審査員は何を思って6部門にノミネートしたのかは、イマイチよく理解できなかった。

東南アジアから台湾に出稼ぎに来ている外国人労働者(台湾では略して「外勞‐ワイラオ」とよぶ)の女の子を、何人か知っている。
どの人も、夫の実家や友達の家や職場で会った。その中のひとりは、結構な美人だった。インドネシアの田舎に夫と小さな子どもを置いてひとりで台湾に働きに来ていた。そして若い彼氏がいた。毎日、仕事のおわる9時を過ぎると高校生みたいにベランダで彼氏と電話で一時間ぐらいおしゃべりして、週末には仲間が集まる郊外のダンスクラブに遊びに行っていた。
じつはわたし、台湾に来る前は彼女たちに対して家族と離れて働いて可哀想、みたいな気持ちを持っていた。でも、彼女たちをみるうちに、そういうわたしの印象はひとつの(しかも上から目線の)偏見でしかないことを知った。
ものすごい片田舎で育ち自分の意志とは関係なく結婚して子供を産んだ彼女たちが、台北のような都会に来て、ファッションや友達とのお喋り、自由な恋愛を楽しむ機会を得る。「外勞‐ワイラオ」であることは、彼女たちのひとつの自己実現の場でもあるのだ。
でも、皆が皆、最初からそんな環境を得ているのではない。厳しい雇い主の元で耐え、知恵をつけ、仲間と情報交換してたくましくなりながら、そういう環境を勝ち取っていくのだ。
「再見瓦城」の女主人公・蓮青のセリフに、一度だけ台湾が出てきた。
「お金を貯めて台湾にいきたい」。
それを聞いて、わたしの知っているたくましく自己実現する彼女たちを思い出した。あのセリフには何か、阿國が1ミリ足りとも入り込む隙間がないかんじがした。とても「オレも一緒にいく」とか言えない雰囲気。いや、「オレも一緒にいく」って言ってくれたら、先はどうあれとりあえず嬉しいと思うんだよね、女は。いや、そのうち足手まといってやっぱり思ったりして。それを男が先に思うのか、女が先に思うのか、まあどうなんでしょう。

そういえば香港映画「十年」でも、中国に飲み込まれてゆく香港人にとって「台湾」がまるで最後のとりでのように語られるシーンがあった。日本から観た姿とは、ひと味ちがうアジアの中での「台湾」という存在が感じられる瞬間、これまたアジア映画をみる面白みといえるだろう。
台北地下鉄MRTの南勢角という駅の近くにミャンマー人街があって、一度行ったことがある。絵文字みたいな可愛いミャンマー語であふれていて、何だかのんびりした雰囲気だったが、あそこの人たちの多くもかつては難民のように戦下のミャンマーを命からがら脱出してきたと聞いた。同じミャンマーでもルーツが異なるのかもしれないが、趙德胤監督には今度は、台湾を舞台に映画を撮ってほしいとおもう。


「再見瓦城」
監督:趙德胤/台湾/2016







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