2017年4月8日土曜日

【日本映画/ネタバレ】ぼくは明日、昨日のきみとデートする ~現実的な、あまりに現実的な。



小学校のときに海沿いにある街に住んでいて、遠洋にでる船乗りさんがお父さん、って友達が何人かいた。そういう子の家にあそびに行くと、きまってアフリカとか南の島とか何とかグアとかの国々から買ってきた謎の仮面(漫画『動物のお医者さん』で漆原教授がコレクションしてるみたいなやつ)や木彫の母子像がいっぱい飾ってあって、ドキドキした(そういう像は大抵オッパイむきだしだから)。

ある日、友達のひとりが言った。彼女のお父さんは大きなフェリーの船長さんらしかった。
「うちの両親って、なんかずっと恋人同士みたいなの。お父さんが帰ってくるの半年にいっぺんぐらいだけど、そしたら二人で出かけちゃうし、すごく仲いいの。」

うちは両親が不仲だったから、それを聞いてすごく羨ましかった。
でも反面、なんだか切ない気分になった。人生をいきてまだ10年ぽっちなのに、人生の秘密を知ってしまった気がしたからである。
どんな秘密でしょうか?
それは、恋愛期間には「絶対量」があるという、身も蓋もない真理である。
10~20代ぐらいならこの映画『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』/中文タイトル:明天,我要和昨天的妳約會)を見て世に言う「キュンキュン」しちゃうのかもしれないが、こちとらもう「すれっからし」なのである。あんまり期待せずに観たのだが、どっこいなかなか、いい映画ではないですか。
恋愛期間には絶対量がある、っていう身も蓋もなさをついている。


高寿(福士蒼汰)は京都の美大に通う大学生だが、通学の電車のなかで見かけた女の子に一目惚れをする。電車を降りて追いかけ、告白する高寿。相手は美容の勉強をしている愛美(小松菜奈)で、また会う約束をして別れる。
翌日クロッキーにでかけた動物園で、高寿は愛美に声を掛けられる。
「そうか、これが廊下に飾られる絵かあ。」
数日後、そのスケッチは本当に先生に褒められ、廊下に貼りだされた。未来を予言するかのような愛美の言葉を不審におもう高寿。デートを重ねるうちに高寿は、愛美が家に忘れていったスケジュールノートを見てしまう。そこには愛美の驚くべき秘密が隠されていた。


まあ端的にいえば、一ヶ月という期限つきで恋愛することを定められたカップルの話なんですね。
期限付きの恋愛映画というと、不治の病だとか使い古された設定な感じがするけれど、この映画の場合はSF的な仕掛けがあって、そこがなかなか面白い。それは相手の愛美が高寿の現実の時間軸と逆行して歳を取っていく(一日24時間は同じ時間軸で過ごせるけど、日付が変わると一日ずつ過去へさかのぼっていく)、パラレルワールドの住人という設定である。
二人の住む世界は、5年に一度ごとの周期で月の満ち欠けする30日間ほど重なり合うことになっている。4回めに重なりあうのは、ちょうど二人が20歳になったとき。20歳という同じ歳同士で出会ったその30日間だけが、二人がカップルとして過ごせる運命の時期なのだ(たしかに10歳と30歳、15歳と25歳の組み合わせだと犯罪ぽくなってしまう)。
しかも二人の時間軸が逆行しているので、高寿が愛美に出会って一目惚れした初めての日が、愛美にとっては高寿と恋人同士として過ごす最後の日なのである。
手を繋いだり、キスしたり、抱き合ったり。高寿にとって初めての行為=愛美にとっての最後の行為。だから愛美はよく涙を流すんだけれど、仕掛けがわかるとこの涙が「効いて」きて、早逝が惜しまれる漫画家・吉野朔実のスイートかつエキセントリックな世界を髣髴とさせる。

映画ではふたりは違う世界に住んでいるから、恋人同士として与えられた時間は30日しかない。二人が恋愛を育んで、夫婦になったりする可能性はゼロである。以前、同じくパラレルワールドものの「君の名は。」についても身も蓋もない感想を書いたが、
(『君の名は~かたわれどきの賞味期限https://taipeimonogatari.blogspot.tw/2016/11/blog-post_9.html
それでも「君の名は。」は将来的にお互いを探し当てたという部分において、この「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」とは意味合いがちょっと違ってくる。

でも。
でもですよ。
恋愛感情を交わすというのは、パラレルワールドに住む者同士が一時期に接点をもち、またすれ違っていくことに似てはいないだろうか。その後はどんどん離れていき、また近づくことはあっても、それがかつてと同じ環境と熱量をもつことはない。

最初は一方的だった感情がだんだんと平衡し、やがて平衡が崩れる。

普通に同じこの世界に住む恋人同士だって、お互いの恋愛熱量の平衡バランスが取れているといえるのって、合計すれば30日ぐらい、珍しく長くて3ヶ月ぐらいなもんではないか。
もちろん、盛り上がったり冷めたりを繰り返しながらカップルって存続するのだが、お互い「この人に恋していて、ちょうどこの人も同じぐらいに自分に恋しているなあ」と感じられるのってせいぜいそんなもんというのが筆者の経験則である(あくまでも当社比なので、或いは「イヤ数年は」ていう人も居るかもしれないが、相当幸せな方だろう)。
大抵は少々バランスが崩れても別の感情で補完できるので、実際の付き合いはもっと長く続けられる。それは友情とか家族的愛情とか仲間意識とか、そういうものかも知れない。人は恋のみによって生くるにあらず。

そんなわけで「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」は、SFみたいな非現実的な体裁をとりつつ、じつは現実的な、残酷なほどに現実的な、物語なのである。


もうひとつパラレルワールドや身も蓋もなさという以外に、この作品には「君の名は。」との共通点がある。それは、東日本大震災を経験した上での「喪失感」を想起させざるを得ないところだ。
どこかの論評で、「君の名は。」において湖に沈んだ街の景色は女川などの被災地との類似性が見られるとの指摘をみて「なるほど」と思った。今となっては、出来ればあの日に戻って「早く逃げて」と知らせたかった、という想い。「君の名は。」が出来た背景にあるのはその「助けることができなかった」想いの投影であり、東日本大震災を経験した日本人だからこそ、あの作品が出来たというのである。

あの震災は、人がふつうの生活を送っているなかで唐突にすべてを奪われる現実があらわれ得ることを、わたしたちに突きつけた出来事だった。被災して大事な方を失った多くの人が、実行できなかった「もっとこうしていればよかった」を何度も反芻しながら苦しんでいる。そのことをわたしたちは、2011年のあの日以来さまざまな形で知っている。
高寿と愛美のように、今この瞬間こそが自分たちに残された運命的な時間だと未来に起こる出来事を通じて知りえたならば。しかし日常とは、そんなかけがえのなさを感じながら過ごすには、あまりにも日常的にすぎる。
そして、難しいからこそ「かけがえのなさ」にひとり努力を重ねる愛美の涙が、観るものの心に切なく染みてくるのである。


ところで、京都を第二の故郷と想い定めているわたしにとって、「比叡山電鉄」「寺町通」「白川沿い」「宝ヶ池」から「みなみ会館」まで、馴染みの深い風景がいろいろ見れたのは殊のほか楽しかった。
もちろん「なんで『みなみ会館』で映画見るのに三条大橋で待ち合わせしてサラサでカレー食うねん~!」というツッコミどころも満載で、さいきん台湾版も出版された名作漫画『逢澤りく(ほしよりこ作)』のなかで描かれていた京都人の家族団欒あるある→「京都で撮影されたミステリードラマのロケ地の不合理性にツッコミを入れながら観る」というシーンを、思いうかべずにはいられなかった。


『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』
(中文:明天,我要和昨天的妳約會)
原作:七月隆文/監督:三木孝浩/2016/日本















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