2018年3月18日日曜日

【講演備忘録】「帝国の網と鑿」



昨日は、台湾の政治・近現代史研究で著名な若林正丈先生の講演を拝聴に伺いました。
若林先生のお話を聞くのは初めてで、まずは「帝国の網(アミ)と鑿(ノミ)」っていうタイトルが意表をついていて興味津々だったのですが、結果「網」「ノミ」っていうメタファーが想像をどんどん膨らませ連想を呼んでくれる、とっても愉快な講演でした。

《帝国の網》《帝国の鑿(ノミ)》とはそれぞれ、現在の「台湾」という輪郭を形づくってきたもののこと。
清朝・日本・中華民国・アメリカなどの帝国による「辺境ダイナミズム」に晒された台湾という場所に「社会」「国家」「国家意識=国民」が時代ごとに生まれ、後を引き継いだ為政者がそれらを掬い取るようにして次の支配に生かしたことで、連続性のある現在の「台湾」が出来上がった、これが「網」。
またその輪郭は、それぞれの「帝国」より打ち込まれた社会的ストレスや財産搾取・差別などの「鑿(ノミ)」によってナショナルが形成されていき、現代の台湾となっている、例えば最近の中国による「對台31」も新たな鑿といえるかも、というのが今回の講演内容の(かなり)大雑把な個人的理解です。
(読み間違えがあればすみません、ご指摘頂けると幸いです。これ以下の文章はわたし個人の連想と思いつきに拠ります)

とくに面白いなと思ったのは、「鑿(ノミ)」という表現
「国の形」をひとつの彫刻作品のように捉えることに、とてもイメージを刺激されました。鑿って槌とともに彫刻作品をつくるときに使うもので、力の入れ具合や打ち込む方向なんかも含めてバランスよく上手につかえるかが、為政者の力量といえるかもしれない。

そこで思い出したのが、むかし国語の教科書に出てきた夏目漱石の『夢十夜』。第六夜で「鎌倉の彫刻家・運慶の作品が素晴らしいのは、もともと木の中に埋まっているものを『彫り出している』からだ」という話があります。
今回思い出して青空文庫でもう一度よみ返したのですが、改めて色んな発見がありすごく面白かった。
つまり、木のなかに本当に埋まってるかどうかは別として、観る人たちに「さも埋まってるものを上手く彫りだした」ように思わせられるのが、運慶が名人たる所以なのです
そして最後に主人公は、埋まっているなら自分も彫りだせると信じて明治の木をかたっぱしから彫ってみたが、そこに仁王は埋まっていない。「明治の木には仁王が埋まっていない」というのは、廃仏毀釈が進み神道や国学が優位になっていくなかで、「木のなかに仁王が埋まっている」と人々が信じこんで精神的支柱にできた程の鎌倉期における仏教への精神的信頼が社会から失われてしまった、と理解できます。
そうしたことを踏まえて台湾に戻れば、木の中に元々なにかしら「本来の台湾」が埋まっているという仮定で、それを上手に名人のように掘り出してみせた運慶的な為政者が、李登輝元総統だったかもしれないと思いつきました。

この「網」と「鑿」の話、これは台湾に限らず、おなじく極東の島国である日本にも応用可能な話で、明治以前、日本もはやり帝国的辺境ダイナミズムにもまれペリーの黒船という「鑿」を受けて「網」に掬われまいとしたことで「日本」の輪郭が形作られたと考えれば、まさに「『日本』という形が木のなかに埋まっているはず」と皆が考えて行われたのが、「明治維新」だったといえるかもしれません
その後そうしたナショナルが進んだ結果に帝国主義化した日本は自らもまた「網」となってしまう訳ですが、この木のなかに「国の形が埋まっているはず」と信じる精神的な働きについて考えた時、最近とくによく台湾の緑派のなかで「明治維新」というトピックが話題にのぼる意味や、政策的にはリベラルな立ち位置である台湾の緑派が、日本の保守派と親和性が高い理由が、胸にすとんと落ちた感じがしました。

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