2018年4月26日木曜日

【台東歳時記③/台湾で、いちばんはやくに文化が目覚めた場所】


山口県下関市の北のほうに、土井が浜遺跡という弥生時代前期の遺跡がある。ここにはアジア大陸から渡来したと言われる200体を越える弥生人の人骨が埋葬されていたが、その中にひとりだけ、弥生人の相方に寄り添うようにして埋葬されていた南方系縄文人がいて「701号」と呼ばれている。
台北帝国大学で医学・解剖学を研究し「民俗台湾」の発行にも関わった金関丈夫博士は、この土井が浜遺跡の発掘をもとに、日本人とは大陸系弥生人と南方系縄文人との混血ではないかという「日本人混血説」を生み出した。
わたしは、この土井が浜遺跡の701号は台湾東海岸から黒潮→対馬海流に乗って山口県西部に流れ着いた台湾原住民じゃなかったか、つまり西日本人のルーツはここ台湾東部にあるのではと秘かに思ってきただけに(あくまでも私個人の妄想ですが)、この日の成功鎮をめぐる小旅行は感慨の深い一日となった。
ここ成功鎮のある場所は、旧石器時代3万年から5000年前ごろまでに台湾で一番早く文化が栄えた場所で、このあたりの長濱という地名を取って「長濱文化」とよばれる。八仙洞という洞穴を中心に人々が狩猟採集や石器を作って暮らしていた長濱文化だが、この日案内してくれた陳さんが持っていた成功鎮の資料なかに見つけた日本時代の新聞記事で、八仙洞が「スケベ岩」として取り上げられていたので「どうスケベなのか」がずっと気になっていた。
帰ってから、今回行けなかった「八仙洞」について改めて画像検索してみると、たしかに・・・うーむ。
これぞ「ザ・女陰」といっていいぐらい女性器にしか見えない。何でもエロく「見立て」てしまうのが伝統の日本で、生まれ育ったからそう見えるんだろうか。何故なら、台湾のほとんどの観光系サイトでそのことは触れられてないし、台湾人にもあんまりそういう認識がないみたいだからで、とある台湾人のサイトでも「日本の植民地時代から、日本人が一番好きな観光地で、これをみた日本のスケベオジサンたちは『obanko~』と騒いで喜ぶ」と書かれていた。obanko、、、これも日本時代の負の(?)遺産といえるのかもしれない。


閑話休題。


吹き飛ばされそうなほど強い風で無数の白波が海面に立ち、その向こうに湾曲した橋が連なって巨岩にかかっているのが見えた。
山口本の新書発表会を紀伊國屋書店でさせてもらったときに、岩国の錦帯橋の事を紹介すると台湾の方々が口々に「三仙台みたい、三仙台みたい」と言っていたのだけれど、ここ成功鎮にあったとは。
岩国の錦帯橋には城下町のみやびやかな香りがあるが、こちら台東の三仙台には、東台湾の自然のダイナミズムを感じることが出来て、どちらも美しい。映画「台湾萬歳」の酒井充子監督も山口県周南市のご出身で、台東と故郷を繋げたいと奮闘されている。このアーチ状の橋といい、「鹿野」っていう地名のお茶処といい、海の幸に恵まれた土地柄といい、台東と山口で確かに共通するところは多い。台湾東部を開拓し「東部開発の父」と言われた賀田金三郎も山口県萩の出身だ。
花蓮・台東の海沿いの沖に見える紺碧の色は、湾生の山口政治氏が著書『知られざる東台湾』のなかで、「子供のころ、沖に出るとフカに喰われるぞ、黒潮に呑み込まれて日本まで流されると聞かされて育った」と書いたその黒潮で、それを見つめながら、山口県防府市で先日に発見された陳澄波による幻の作品『東台湾臨海道路』を思い出した。この絵の舞台になった場所は、もっとずっと北上した花蓮の蘇花公路がある辺りだけれど、この海の色はまさに陳澄波が再現したそのままだなあと感心する。ちなみにこの絵のフレームには、台東沖の島に暮らすタオ族の船材が使われている。
比西里岸(pisilian)部落では、アートや工芸品を使った村おこしが行われていて、公民館のようなところでは女性たちが寄り集まって楽しそうに色とりどりのテープで籠を編んでいた。アミ族語で"pisilian”は「羊を放牧するところ」の意味で、羊(臺灣山羊)をモチーフにした公共アートがあちこちにあり、のどかだ。


日本時代には神社(都歴神社)があったという場所に連れて行っていただいた。山の中腹までつづく真っすぐな石段を登りきると、両際に四角い穴がぽっかりと空いている。かつてここに鳥居が立っていたのだ。屋根の部分だけを残して、まんなかに黒い碑が立つ。表面には「1911年 Madawdaw 阿美族英勇事件記念碑」とある。成広澳(セイコウオウ)事件といって、台東では当時最も大きな、アミ族による抗日事件だった。

日本軍として南方に出征し、終戦後30年近くたってからジャングルの中で発見された中村輝夫氏も、ここ成功鎮アミ族出身の高砂義勇軍である。中村さん(アミ族名はスニヨン)が発見されたとき衣服を付けていなかったそうだが、30年間のジャングル生活のなかでも、毎日規則正しく生活し、皇居のほうに向かっての礼拝を欠かさなかったという。
日本遺族会により、近年は硫黄島、ソロモン諸島、パラオ諸島での遺骨収集が始まっているが、日本軍人として出征した台湾人の遺骨は今どういう状態にあるのか、帰還の声が祖霊信仰の強い原住民子孫の方々から出ているのかは、気になるところだ。またその際、高砂義勇隊として出征した台湾原住民の方々がフィリピンなど南方の現地の人たちと骨格やDNA的に近い場合、今後問題化する可能性もある。
日本時代に金関丈夫博士ら研究者たちによって収集された原住民族の骨格標本が、近年になってようやく臺灣大学より積極的に故郷に返還される流れとなっているが(京都大学でも金関丈夫が集めた今帰仁村の遺骨問題が最近ニュースになっていた)、台湾における現在の「移行期の正義」の流れで言えば、日本時代に端を発するこういった事にも、いつか向き合わなければいけないことは、きちんと理解しておきたい。

→ ④につづく

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