2018年4月27日金曜日

【台東歳時記④/菅宮勝太郎と海ぶどう】


通称「卡片教会」と呼ばれる今はもう使われていない小さな教会は、ネット上でも大人気らしい。人気ポイントは、前から見ると一見立派な教会なのが、横からみると舞台の書き割りみたいにペラペラだから。思わず漫画『おぼっちゃま君』の、びんぼっちゃま君を連想した。でもこの教会、色合いとか何だかスペインのイビサ島なんか(って行った事ないけど)にありそうな雰囲気で、クリスマスツリーにぶら下げたいような愛らしさである。
とある友人が、毎年旅に出た先でオーナメントをひとつずつ買い足すという話を聞いて以来、わたしも真似をして旅先で気に入ったものに出会えば買う事にしている。クリスマスの飾りつけの時に、旅を思い出しながら飾り付けるのは楽しいものだ。成功鎮オリジナルのクリスマス・オーナメントとかあったら欲しいな。鹿やカジキマグロとかこの教会とか、ここにはキュートでキャラ立ちしてるものがたくさんある。


陳さんのご家族・ご友人と待ち合わせて昼食となった。連れて行ってもらったレストランは、酒井監督が『台湾萬歳』を撮っている最中に通い詰めた料理屋さんで、オーナーの料理人は横浜中華街で勤めたこともあるらしい。丁度となりのテーブルに集まっていた大家族(15人ぐらいいた)のなかには、『台湾萬歳』の主人公であるカジキマグロ漁の漁師さんご夫妻もいた。台東の黒潮が育んだご馳走がつぎつぎと丸テーブルに並ぶが、中でも白眉だったのが、小鉢に山盛りの海ぶどう。そして中華蒸しにした天然「ゾウリ伊勢海老」の身の甘いこと限りなし。

実は『台湾萬歳』の現地プロデューサーである陳韋辰さんの本業は、海ぶどうの養殖と天然伊勢海老の仲卸しである。とくに海ぶどうは、食用のほか美容液などにも製品化されている。海ぶどうを成功の名物にするのが陳さんの夢のひとつだ。陳さんおススメの食べ方は、カジキマグロのお刺身に、海ぶどうを幾房かつけあわせて一緒に口にいれること。じっと見ていると吸い込まれるようなグリーンにかがやく一粒一粒が、素敵なピアノ曲みたいにリズミカルに口のなかで弾ける。海ぶどうの吸い込んだ東海岸の海の潮と、カジキマグロの脂とが舌のうえでまじりあい、太平洋の陽光に照らされて黒潮に乗っているようで、気分は若大将。

ああ、幸せだなあ。


陳さんの奥さんは大阪出身の日本人で、名前を雅子(まさこ)さんという。シュッとして美しい人だが、特別に背筋がピンと伸びているのはバレエの先生だからだろうか。自宅の奥には鏡張りでバーもきちんとついた、バレエスタジオがしつらえてある。
「世界一小さなスタジオよ!」と雅子さんがコロコロ笑う。
たしかに、台東の市街から1時間ほども離れた漁港のある町に日本人女性が暮らしているというのも意外なうえ、更にバレエスタジオまであるとは、これまた映画みたいなシチュエーションだ。生徒さんは、沖縄古武道の達人の本村さとみさん以外は、地元成功鎮の子供たち。アミ族の女の子もひとりいて、歌や踊りに上手さに定評のあるアミ族だけに、トゥで立つのも早かったという。年に一度の地元の学校の体育館である発表会を6月9日にひかえ、今皆さん懸命に練習中の演目は「不思議の国のアリス」。
「来たときは嫌で嫌で仕方がなかった。生活に慣れなくて買い物に出るたびに、わらわらと人が集まってきて ”日本人、日本人”と囲まれるし」と雅子さんは笑う。その笑顔には運動選手が勝利を勝ち取ったときみたいな、はにかむような嬉しさがにじんで、こころを少し締め付けられた。わたしも同じく言葉の通じないまま台湾にお嫁に来た身である。台北でも当初は色々大変で辛い思いをしただけに、雅子さんの大変さは想像するに余りある。
それでも今はここで、日本語を教えたりバレエを教えたり、時には地元の学校で生徒たちに浴衣を着付けする雅子さんの胸には、見えない「メダル」みたいなものが光り輝いている。

食事を終えて、レストランの近くにある新港教会にいった。その脇に古い二階建ての木造の家があり、門には「菅宮勝太郎故宅」とある。菅宮勝太郎は日本時代、当時は新港という名だったここ成功鎮に移民してきた日本人のなかで初めて警察署長になった人で、今の成功鎮の碁盤の目状の街づくりを進めた。菅宮はこの地を愛し、政府に異動を命じられた際には官職を捨て、この地に骨を埋める事を決意して1932年にこの建物をつくった。


「菅宮勝太郎のことを知ってほしい。そして、この成功鎮を心の底から愛した日本人がかつていたことを、もっと沢山の人に知ってほしい」
そう陳さんはいう。手には分厚いファイルがあり、その中には陳さんが自分の足で歩いて探しあてた菅宮勝太郎の家族や子孫、当時の街の手書き地図など、膨大な資料が挟まっている。中でも陳さんが力を入れてきたのは、菅宮が親身になって世話をしてきた地元の人たちのその後の資料だ。貧しいアミ族の子供たちに学費をだし進学させたり、自分のところで書生として働かせて育てるなど、菅宮は教育に力をいれ、その中から議員になったり学校の校長になるなど出世した方達も少なくない。そうした方々が、恩人の菅宮勝太郎の墓に参った写真がたくさんある。また陳さんや酒井監督の協力を経て、菅宮の子供たちが新港で親交のあった同級生と東京で再会したエピソードは、毎日新聞の鈴木玲子記者により、新聞記事にもなった。

https://mainichi.jp/articles/20170904/ddl/k13/040/032000c


ここに一軒の朽ちかけた廃屋がある。
その廃屋がもつ記憶の積み重ねを発掘し、成功鎮の人々のこころと文化のよりどころとして生まれ変わらせようというプロジェクトが、陳さんはじめ地元の若い方々の手で始まっている。

最近よく日本の方からこんな質問を受ける。
「台湾の人が日本の建物を大事にするのはどうしてですか?」
これにどう答えるかは、いつも考えさせられるし、常に答えは更新されるんだけれども。
「台湾の人が大切にしているのは、日本のものだからとか古いものだからというのではなく、自分の足元まで繋がっているはずの見えない道を大事にしようとしているのだと思います。それが結果的に日本時代の建物を活かす事に繋がっている」
最近は、そんな風に答えている。


みじかい時間だったけれど,多くの出会いと思索をくれた素晴らしい台東の旅でした。そのなかに共通するのは、自分の足元を大事にして、地域の皆で夢を描こうという熱い想い。書きたいことが溢れてきて思いがけず長い記事になりましたが、台湾の台東でそれぞれ夢を描いている方達の片りんを感じて頂ければうれしいです。
この旅でお世話になったすべての方々に、心より御礼を申し上げます、有難うございました。また映画『台湾萬歳』が早く台湾で公開されることを、心より願っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿