2018年5月20日日曜日

京都と水とY字路と。



『きょうの猫村さん』でおなじみの京都出身の漫画家、ほしよりこさんに『逢沢りく』という名作がある。東京からきた主人公の女子高生「りく」が関西に馴染めない話なのだが、預け先の家族のノリがいちいちベタで面白く、そのひとつに京都が舞台のサスペンスドラマを観ながらツッコみあう団欒シーンがある。つまり、「南禅寺」から「嵐山」に突然ロケ地が飛んだりするのに「遠いやろ!」とか言いつつドラマを観るのだが、これって京都人には「あるある!」な楽しみなのではないだろうか。   
中でもテッパンのロケ地はおそらく、舞妓さんたちがお参りするので有名な、祇園北側白川沿いの石畳に建つ辰巳大明神だろう。「碁盤の目の街」の代名詞のような京都でも、注意して見ればY字路は少なからず存在するが、全国のお茶の間で知られるこの辰巳大明神は、京都のY字路の顔ともいえそうだ。




 古代中国から発展した法格設計、いわゆる碁盤目状の都市計画は、平城京や平安京をはじめ日本の街づくりに大きな影響をおよぼしたが、計画的に作られた都市のなかを斜めに食い込む「Y字路」ができる理由は、たいてい次にあげる3つのどれかに当てはまる。ひとつは、フランスパリのエトワール広場にみられるような意図的にデザインされたY字路。ふたつめは、東京の渋谷などで散見される高低差由来のもの。そして三つめは、元々は水路や川だったところが暗渠となったり、鉄道の線路が埋め立てられたり、新しく開通した幹線が古い道と交わったりという、いわば都市計画の変遷のはざまで出来たものだ。
特によく目にするのが三つめで、たとえば四条大宮から北西に向かって千本三条まで斜めに走るY字路もそう。「後院通」という名の通りだけれど、地元の木材業者の反対によってやむなく斜めに通されたという街路で、1912年から1978年まで路面電車が走っていた。当時その線路に敷かれていた高価な御影石の敷石は、線路廃止後に哲学の道で石畳として第二の人生を歩んでいるらしい。





 辰巳大明神のある「巽橋」のY字路にもどろう。
Y字路の左側を流れるのは「白川」である。比叡山麗に端を発し、鹿ケ谷をとおり、南禅寺の西で琵琶湖疎水と出会ってから知恩院のわきに流れてきたあとに、ここ巽橋の下を流れて鴨川へとそそぐ白川は、脇に立ち並ぶお茶屋のお座敷に、情緒ある優しいせせらぎを運んできた。明治27年(1894年)の『京都伏見間水路地圖』をみると、当時のこのあたり、まだY字路になっていない。新橋通と末吉町のあいだをただ白川が斜めに横切るばかりである。しかしその後、昭和五年(1930年)発行の『京都都市計画図』では、Y字路の左側の白川に沿う「白川南通り」が出現している。つまりここは、新橋通を横切っていた白川の川幅を狭くして、その脇に新しい道(白川南通り)をこしらえたことで出来たY字路なのだった。
 筆者は『台湾、Y字路さがし。』(台湾玉山社発行/2017)という自著のなかで、台北をはじめとする台湾各地のY字路の成り立ちや周辺の歴史について調べた。そこでわかったのは、特に都市部のなかのY字路に関していえば、巽橋のY字路と同様に、多くが河川や用水路などの「水路」と関係することだった。

 水を近くに感じながら呑む酒って何故だか美味しく感じられるものだが、京都はそんなロケーションに事欠かない。白川沿いの料理屋。高瀬川沿いのバー。桜のころなら出町柳の三角州でシャンパンが泡立つような桜並木を眺めながら呑むビールは格別だし、夏ならば鴨川を見下ろして飲む川床や東華菜館のビアガーデンだって捨てがたい。
京都下鴨の「伊万里」というバーをやっていたマスターが昔、台北に遊びに来たときにこんなことを言っていた。「京都って土地は、地下にある大きな湖のうえに浮かんでるんですよ。」

なるほど地下湖か。

そう考えれば、蒸し風呂のような京都の夏の暑さにも納得がいく。京都という街が浮かんでいる地下湖から汲み上げられた京都の井戸水は、ほのかにあまく殊のほか旨いが、伏見の蔵元・松本酒造の「澤屋まつもと」など、美味しい日本酒もおおい。
 つぎに京都に帰ったら。
どこかのY字路に立つ飲み屋にて、そこにもかつて「水の流れ」があったかもしれない、そんな想像をしながら酒をのみたい。地下湖の水が蒸発して空にあがり雲をつくる。雲から落ちた雨は比叡山麗の土に浄化され、幾筋もの流れとなって京都の中心へと流れ込み、鴨川のせせらぎへと変わる。もしもその時にのむ酒が、鴨川と並行に南へとはしる高瀬川沿いに建つ伏見の蔵元で作られたお酒であったならば。なんだかまるで「京都を呑んでいる」みたいに、感じられるのではないだろうか。

《Men's Leaf vol.04 京の街ブラ大冒険》掲載

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