2018年6月16日土曜日

台湾でみる『楢山節考』考


今村昌平の『楢山節考』デジタルリマスター版を劇場でみた。思ってたより人が入ってたズラよ。改めて観終わって思ったのは、これは日本よりむしろ台湾とかの中華圏のほうがウケルんだから、今またやってるんだろうなと納得したズラ。なにせ、ここにえがかれているのは神話的なほどの親子愛だから。
『万引き家族』もそうだけど、最近の日本映画は弱い人たち壊れた人たちが家族を作って頑張っていく疑似家族ものが多い。アメリカではジョン・ウォーターズとかティム・バートンが昔から撮ってきた個人的に好きなテーマだけど、台湾映画ではそういう映画がびっくりするほど少ない(そして「お母さん」を軸にした映画がすごく多い!)ことに、台湾社会におけるジェンダーの自由さに対しての家族的保守というもののバランスいついて考えさせられる。
その理由についてはこれから観察を続けていきたいところだけれど、最近では「アリフ」「オンハピネスロード」など、ジェンダーアイデンティティー・女性の自立にするどく切り込みつつ、最終的には子供を産んで自分の血のつながりを繋いでいくっていう事で落ち着くのは何でなんだろう。「血は水よりも濃い」っていう言葉に対して、現代日本と台湾のあいだにものすごい温度差があるなあと、『楢山節考』見ながら思いました。
『楢山節考』の映画自体はアイヌの民話のようなアミニズムの目線に立ったもので、山に暮らすフクロウや鷹や蛇や狸たちの視線を通して、冬山という厳しい生活環境のなかで、食べたりまぐわったり身ごもったり殺したりしながら生物界を生き抜いていく「動物」としての人間が生々しく描かれる。
女子は売れるから喜ばれるけど男子は間引きされて田んぼに棄てられ、次男以降は結婚もできず家族の下働きとして飼い殺しにされ、70歳を迎える年配者は姥捨て山に棄てられる。すべて限られた「食料」の中で命を繋いでいくためだ。
因習というものに対しての好奇心という意味で、当時のカンヌでパルムドールを争った『戦場のメリークリスマス』の坂本龍一が言った、結局『楢山節考』が選ばれたのはカンヌ審査員による一種のオリエンタリズムだ、みたいな言葉の意味も分かる気がする。
村のタブーである「盗み」を働いていた雨屋の家族が夜中に村人たちによって簀巻きにされて穴のなかに生き埋めにされるシーンで、埋め終わった村人たちが何の躊躇も振り返りもせずサーっと舞台から消えてしまうのは、まるで私たちの身体のなかの白血球とかが異物を攻撃してあっという間に回復してしまう、ひとつの生命体の有機運動みたいでそうした捉え方が、小説から映画がひとつ別物の世界を作りえた部分かなと思いました。木下恵介バージョンがまだ未見なので、この夏は帰って探してみようと思います。
小沢昭一、殿山泰司、左とん平の完全にその世界にはいちゃったキャラと、倍賞美津子のエロみほとばしる太もも、清川虹子の思いがけず若々しく張ったおっぱいも見どころ。楢山節考

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